差別は無くならなさそう

差別はなくなるのか
一般論を言えばもちろん差別はないほうがいい。
でもなくして然るべき差別と、永遠に無くならない差別がある。
例えば人種差別などはいずれは、遠い未来ではなくなるとは思う。
一昔前まで奴隷制度が普通に跋扈していたのと同様に、現在の人種差別はそのくらいにありえない時代だったと振り返る日が来るだろうと思う。
しかし、個人が個人に対して行う差別は永遠になくなることはないのではないか。
差別というよりは差別感情というべきか。
個人的に誰が嫌いだとか、生理的に無理だとか。
そういった感情を抱くこと自体は悪ではないので、それを罰することもできないし非難することもできない。
生まれた地域や肌の色で差別されることはなくなるかもしれないが、見た目だとか話し方、臭いなどで個人が個人を差別することに対しては誰も何もできない。
それが恋愛関係なのか、友人関係なのか、仕事関係なのか、いずれにしてもそういった個人的な感情で動くことが多い関係性では、生理的に受け入れられないことが人種差別以上に辛いものになるだろう。

でもそれは本人が乗り越えるべき壁なのかな。
もし本人がそうしたハンディキャップを埋めるべく、なにか周りにプラスになるような価値を提供できなければそれは、そうした遺伝子は自然淘汰されて叱るべきとなってしまうのかもしれない。例えばめちゃくちゃにお金を稼ぐとか、話してると楽しくなるだとか。

情報の偏りと偶然

youtubeで関連動画や、おすすめ動画から見るつもりのなかったものをついダラダラ見てしまうのが良くないなと思い、chrome拡張機能を入れてそれらを非表示にした。

これによって、チャンネル登録してある動画や、明示的に見ようと思った動画だけしか見られないようになった。

当面は、時間の節約という観点で良い方向に働くとは思うが、これが完全なプラスかというと微妙だ。

このままの使い方をしていると、明示的に見ようと思った動画以外の動画にアクセスできなくなってしまう。そうすると、偶然興味のある動画に出会うことがなくなる。とすると、自分の見る動画のジャンルも限定されて、価値観も特定の発信者の発信内容に偏ったものになるかもしれない。

こういう方針で情報の取捨選択をしていると、登りたい山へのルートは見えてくるかもしれないが、もっと高い他の山の存在に気づけないことがあるはず。

うろ覚えの知識だが、機械学習の精度の向上のために、その時々の最適解を選択し続けていく中で、一定の割合でランダムな選択をすると、常に最適解だけを選択し続けるよりも精度が上がることがあるとかなんとかがあった。本当に最適な解にたどり着くというよりは、現時点からみた暫定的な最適解にたどり着く方法なのだった。

 

これに似たようなことで、コロナの影響でのリモートワークがある。
これも、業務の内容が明確になっていて、家で集中してやるだけであれば、短期的には作業効率が上がったりして効果が出るだろう。しかし、完全にリモートだとコミュニケーションも意図した人と愛した内容でしか取れない。こうした状況で偶然何かが生まれるということは起こりづらい。例えば新しい趣味であったり、いいお店だったり、お金周りで役立つ知識だったり。こうしたことは別にネット上に落ちている情報・知識ではあるが、それを明示的に取りに行かない限りは目に入ってこない。オフラインでの人との会話ではこうした意図しない情報が入ってくることが大きなメリットだった。

 

こうした人とのコミュニケーションのとり方が変わっていく中で、人が情報を取得していく手段も大きく変わっていきそうだ。

今日情報はすでに溢れかえっていて、ネット上に上がっていない情報を見つけるほうが難しいくらいになっている。今はこんな時代だからこそ、情報そのものではなく、いかにしてその情報を取るべきかを気づかせることが大事になってくるのではないか。

何が人の幸せか

人の幸せはどこにあるのか。

 

結論、人の幸せは何が決めているかというと、自分の考えである。

つまり、自分の脳が自分の幸せを決めているわけだ。

資産が100億あろうが不幸せな人は不幸せだし、年収が300万の人でも幸せな人は数多くいる。

結局は本人がどう感じるか、という問題に帰結する。

幸せを感じるということはすなわち脳汁がドバドバ出ているということだ。

どこで脳汁が出るかは人それぞれ。

これを人為的に出すのが薬物なわけだが、これは果たして悪いことなのか。

一般的になぜ悪とされているか、調べてみると

 

- 人間の精神や身体をボロボロにし、人間としての生活を営むことができなくなる。

- 幻覚・妄想などが、殺人や放火等の凶悪な犯罪や交通事故を引き起こす。

- 社会全体に対しても、取り返しのつかない被害を及ぼす可能性がある。

 

と、まあ大体こんな事が書いてある。

で、思ったのがこれって社会システムとしてこれを容認してしまうと問題があるという話で、人間が薬物をやってはいけない理由ではないんじゃないかなーと。

もし他の周りの人間のことを考えないとしたら、一人の人間が薬物をやることを止める合理的な理由にはならないのではないかと。

人は幸せになろうとする生き物で、つまりは快を求め続ける。というか人間に限らず生き物はみな快を求めている。それが生きる理由であり、存続し続けてきた理由でもある。

とすれば、人間の最終的なゴールは快を得ることで、それが薬物によって得られるのならば、それを禁止する理由はないのではないか。

美女を抱くのも、美味しいものを食べるのも、ギャンブルで大勝ちするのも、友人と楽しく談笑するのもすべて快を得る行為だ。

 

 

星新一の作品にこんな話があった

宇宙から物体が飛来した。
中を開けてみたところ、入っていたのは設計図。
どうやら何かの機械のようだ。
内容を解読し、設計図通りに組み立ててみることに。

早速、完成した機械。
この機械は、実験により特に害もなさそうであることが分かる。
それどころか、使用者に桁違いの快楽を与える物だった。
とりあえず、常習性も無いらしいとのことで大量生産に踏み切ることに。

ところが1つだけ不安があった。
設計図には本商品に特許権があることを示していたのである。
「断りなく生産するのは良くない!!」
そう主張する一部の良識派の意見は黙殺され、黙っていれば分からないだろうと押し切られてしまう。

こうして、大量に出回ったこの機械。
今や誰しもが所持するようになった。

そんな時、宇宙からこの機械の特許権者がやって来た。
本来、設計図は他の惑星に届く筈が不手際で地球に不時着したらしい。

慌てふためく地球側だが、これだけ出回ってしまっていては誤魔化し通すことは出来ない。
潔く謝ってしまおうと決定する。

こうして謝罪した地球側代表に対し、宇宙人は気軽に許す。
「あぁ、この商品は敵対する相手に送り付ける物なんですよ。この機械が普及すると文化レベルが其処で止まり、後は衰退するだけなんです。そんな正式な使用法なら特許料を頂きますけど、ご自身で使用されることについては大丈夫ですよ」―――エンド。

引用: http://mysterytuusinn.seesaa.net/article/268644174.html

 

これは薬物のデメリットを取り払ったようなものだろう。

もしこんなものが存在するとしたら、これは果たして社会に受け入れられるべきなのか。

別に人類の目的は文明を発達させることでも何でもないので、これを使用したことで文明が止まることが絶対悪とも言えない。これで幸せと感じる人が増えるのであればこれはこれで悪いものではないようにも思う。

 

一方で、本人以外のことを考えると、薬物はもちろんこの機械も悪となるだろう。

理由は周りの人が悲しむから、被害を被るから。

となると、本人としても周りの人を悲しませたくない、不幸にさせたくないという思いがあればそれを含めて天秤にかけることになる。

 

でもこれはすごく難しい問題だ。個人の幸せと周りの幸せが両立しないこともあるもんだ。

例えば、薬物は完全に駄目だとして、タバコはOKなのか。

本人は好きで吸っているが、それが周りの人に迷惑をかけたり、本人の健康を害することで身近な人を悲しませる結果になるかもしれない。かといってそれを禁止するとなると、じゃあお酒は?高カロリーな食事は?健康のためを気遣ったらこれらも控えたほうがいいということになってしまう。そうして楽しみを一つ一つなくしていくと、じゃあ自分は一体何が楽しくてなんのために生きているんだろうとなってしまう。

結局はこれらは全部グラデーションになっていて、明確にこれはだめでこれはいいという境界は存在しなくて、その判断基準も人によっても違うし時代によっても違うし場所によっても違ってくる。

だからこそ、社会規範に則った幸せではなくて、本当に自分が幸せと感じる生き方を探していきたい。

人は幸せにならなくてもいい

人はなんのために生まれてきたのか、生きているのかを考える。

"人は幸せになるために生まれてきたわけではない"

という主張を受けて確かになと思った。

 

別に人は幸せになるために生まれてきたわけでもなく、また幸せになる必要もない。

ただ単にその人自身がどうなりたいか、というだけの話なのだ。

もし幸せになりたいならば、どうぞご勝手に。別に私達はどちらでも構いませんよ。という世界なのだ。

そんな世界に自分なりに生きる意味を見出していかないといけない。いや、別に意味を見出す必要もなくて、それもまた意味を見出したかったらどうぞご勝手にとなるのである。

 

人は別に何か意味を持って生まれてきたわけでもないし、人が理由なく死んではいけないということもないし、もっというと人類が存続していかなければいけないという理由もなにもない。

もしコロナがもっとやばいウィルスで本当に人類が死滅してしまいそうになっていたとして、何が問題になるのだろうか。

 

もちろん人類が死滅したら嫌だし、自分は死のうとも思わないし身近な人には死んでほしくない。自分自身の感情としてはこう考えているが、それが"あってはならないこと"かと言われると少し違う気もする。

 

つまりは"かくあるべき"みたいなものは世界には存在しなくて、"かくありたい"という個人の感情が存在するだけなのだ。

だから、自分の行動はすべてしなければならないからやっているのではなく、自分がしたいからやっているものなのだ。

働かなければいけないなんてことはなく、別に働かなくてもいい。

働くことと、働かないで収入が減り衣食住がままならなくなること及びそのストレスとを天秤にかけて、働くことを選んでいる。

幸せになることも、幸せになるために努力する辛い道と、そこまで幸せにならないけど辛くない道を天秤にかけて、いずれかの道を選択している。

 

少し脱線してしまったが、要するにこうならなければいけないということはこの世界にはない、なので自分がどうありたいかは自分で決めていこうという話。